子沢山かあちゃんの牛歩

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クリックで救える命がある。

愛情ははかれない。

私は胸をはって、「子に目一杯の愛情をかけています。」と自慢は出来ない。他のママより手抜きしている自覚はあるし、激務のなか子供と向き合おうとしてくれる夫にはかなわないと思っている。孫に喜んでもらいたいからと、ふらつきながらも果物や野菜をせっせと作り渡してくれる義母の姿を見ると、夫が激務の合間を縫って子育てに専念する様子も、然もありなんなのかなとは思う。

 

子育てというものは、誰の子の親が秀でているのかとか、天秤ではかれなかったりする。子のためと思い、せっせと働き遺したお金を、成人した子供同士が取り合い骨肉の争いになることもある。自分は贅沢せずに、苦労して学費を捻出し、子に学歴をつけさせてあげても、成人した子が親を見捨てる場合もある。夫の両親と同居し、家事全般を担い、地域の付き合いに参画しているママ友の姿を見ていると、よき家族の姿だなと思える。

 

地域の子どもたちのために、無償で体と労力と時間を捧げている、うちと同じ世代の子をもつパパを見ていて、愛情の深さと広さを感じる。

 

私の親が愛情欠損していたかというと、そうではないのだけれど、体裁を整えることに重きを置きすぎたかなとは思える。実際は夫婦間の愛情は冷え切っていたにも関わらず、子供のためという大義のために家族を維持してきた。親たちにも子への愛情はあったとは思うのだけど、仮面夫婦になると

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本来赤丸の枠組みでまとまるはずの家族が、父母同士の情の交流がないと、水色とピンクの枠組みのようになる。外から見ると家に同居しているからよい家族に見えても、中身は感情が分裂している緊張状態が維持されているために、親にとっても子にとってもリラックスできる場ではなくなるのだ。夫婦関係が決裂しているのに、「お前たちのために、離婚を我慢している。」というプレッシャーを与え続けることは、子の精神衛生上よろしくない。

 

しかし子どもたちを大学まで行かせてくれて、結婚するまで離婚を踏みとどまってくれたことは、父なりの愛の表し方だったのだとは思う。

 

愛情とは見えにくいもので、その人がいなくなった後でも、「ありがたかったな〜。」という気持ちを人の心に残せることが、愛情の証になるのかなとは思える。

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