子沢山かあちゃんの牛歩

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クリックで救える命がある。

ひどい頭痛で倒れていた話

普段ならば1日横になれば治るはずの頭痛に、3日間苦しまされた。頭痛の原因は、肩こりである事が多い。今回もそれだと思い、湿布とロキソニンで対処するも、脳が締め付けられるような痛みと吐き気がおさまらない。眠ればこのきつさから逃れられると、眠気がおこらなくても横になり、目をつぶって耐えた。

 

こんな調子の悪い日に、ピアノの調律の予定を入れていたり、子供の習い事の送迎や家事はしなくてはならなくて、吐く寝る活動するのサイクルでデューティを果たした。始めの方は、合間にスマホも見る事が出来ていたけれど、症状がひどくなるにつれて、スマホの画面の光が頭痛を悪化させるようにもなり、スマホを遠ざけるようにもなった。

 

ここ最近、自分の深層心理を掘り起こすようなブログの書き込みして、それに呼応するように昔の写真を見たりしたせいか、ふとした時に情動を揺さぶられて涙が出た。そんな時にブロガーさんの文章を見ると、さらに脳を刺激する。スマホを使い、脳の古い記憶を呼び覚ますことって、自分で自分に暗示をかける行為なのかなとふと思った。

 

今回の頭痛は、本当に苦しくて、後頭部を鎖でギューッと締め付けられるような拘束感があったのだ。苦しくてたまらないから、逃れようと必死に眠ろうとして、辛うじて眠れても症状はまだ続いていてがっかりしての繰り返し。普段の頭痛ならばロキソニンで改善するのに、今回は薬も無用の長物だった。

 

昔を回想すると、今は別世帯をもった家族に対しての憤りが、むくむくと湧き上がってしまう。こんなことをブログに書いてしまうと、「親不孝者め‼︎」と批判されてしまうだろうし、社会的にみると定職にもつかずに、ニートをしながらネットでガス抜きしている私は立つ瀬もない。

 

でもネットのおかげもあり、以前に比べると気持ちの整理がついてきている。思い通りにならなかった私が、今度は逆に実家を思い通りにしようなど不可能であるということ。そして人に執着しているから気持ちが苦しくなるわけであり、その執着を断ち切る準備をし始めたことで、私も前を向いていく気持ちになりはじめた。

 

周りの支えもあり、いつのまにか我が子は成長している。親になるのが同級生よりも早かったこともあり、精神年齢が子供の親が子を育てているような様子だったとは思う。

 

「子を育ててはじめて、親の有り難みを感じることができる。」とはよく言われる言葉だ。しかし、葛藤が表面化している親の庇護のもと成長する子は、後々精神的な問題を抱えやすい。それは親が悪いという訳ではなく、親の親の代から連鎖していて、親子関係も戦後と現代ではまたはるかに違っているから、だからといって比較しようもなかったりはする。

 

表向きは匿名ブログとはいえ、あからさまに生家の粗を書きこんでしまう私は、周囲からひかれてしまうだろう。しかし、過去に家族間でゴタゴタがあった時に周りを騒がし、各方面へそれ以上の粗を晒してしまっている実家の内情について、可能な限り客観的な事実として記しておきたい気持ちがあるのだ。

 

私はどうしても主観に偏った見方をしてしまう。整合性を取りたければ、色々な方面からの情報をかき集めれば、それも可能であるということ。

 

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頭痛2日めに、随分前に予約を入れていた調律師さんに来ていただいた。2年半前に調律して頂き、本来ならば1年毎に調律するべきなのに、怠惰な性分故、のばしのばしになっていた。ピアノの音程はかなり狂っていて、消音ペダルをふまなくても常に音がこもる状態になっていた。キンキン痛む頭を抱えながら、調律師さんが1音1音調律している音を聞いていた。

 

頭痛から解放された今日、ブログに書きこみながら、いつものように短絡的に連想してしまう。私って調律を長年してないピアノみたいだなと…。実家にも古いピアノがあった。父が子供のために買ってくれた中古のピアノ。調律師さんが来てくれた記憶はほとんどない。音はこもってオルガンみたいだった。

 

今年の夏、姉とメールした時に、姉は言った。「自分は今幸せだ。」と。キャリアがある姉と私では、また歩んで来た人生も、背負ってきたものも異なる。姉の反抗期が一番ひどかった。親に反発する姉をきつく叱る父をみて、子供ながらに世渡りしようとしたのか、元々もった性格ゆえか、私が一番親に従順だったとは思う。だから外から見ると、反抗期が遅れてきたのだろうと、笑われる話だとは思う。

 

ただ、一人っ子とは違い、兄弟が複数いると、親が高齢化した時に、分裂もおきやすい。私と親、私と兄弟、それぞれ他人であるということ。歯車が噛み合わない人と、無理にあわせようとすることもない。そしてそれぞれに違った歯車をもち、家族という箱を稼働させているのだということ。

 

姉からは以前こんなことも言われた。「専業主婦って病むよなあ。」

キャリアを着実に積んで、社会的評価を得ている女性と、家庭にずっといる主婦ではまた、自己肯定感が違ってくるのだとは思う。そして私と姉では生家に対する見方が違っている。姉は私ほどは、1つ1つの出来事に動じていないなあとは感じる。それは日々優先させないといけない仕事があるからであり、些細なことに動揺する訳にはいかないのだろう。

 

 こうしてダラダラと過去のことを書き記す私も私だが、ブログの名前にある「牛歩」は、私の精神年齢が成長していく様を、客観的な記録として残すことを指しているのかなと、今更ながらに思った。

 

こうして悶々とすることも、次のステップにのぼるためには、必要なことなのかなとは思う。私の在り方は、ある人からみたらモラルに反しているとみなされるかもしれない。でも心のどこかでは承認欲求を満たしたいと思うから、しつこくブログに書き込んでしまうのだとは思う。

 

 

 

 

 

 

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